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2005年9月30日 (金)

幼きものへ 写真手紙

AisuUeno Block デジカメの写真を孫と遊びに行ったあと、それを送ってあげれば、記念になる。

最初、ブロック買って孫が遊びに来たがるように仕向ける写真をはがきにして送った。それが続いた。それは、孫へのメッセージになるし、自分自身の発信になる。

こちらから仕掛けないと、なかなか交流はできないので、手紙だけでは楽しめないだろうと、写真をつけた。

Magic HotaruIka これは子供の記録になるし、年長者からのアドバイスもできるし、交流になる。自分自身の着眼点が鍛えられる。そんな気がする。

せっかくパソコンを持っているなら、実行するにかぎる。遠くの孫に会えないときは、こんな手段がいい。

Kabuto Semi 文字が読めるようになったら、こういう手段で孫の心にかかわっていけるのは、楽しいものである。

2005年9月25日 (日)

イギリスへ帰ったアイラ

今年3月以来我が家にいた娘は、7ヶ月滞在した我が家からKIF_9813 本日、アイラと共にイギリスに帰った。台風の中、私たちと兄妹家族で成田空港へ送って行った。

アイラはまだ一歳だから、これから何処へいくのか、よくはわからないだろう。成田空港からチェックインしてガラスの向こうに行って、こっち見て不思議そうだった。

ようやく、口真似で「でんしゃ」「いっちゃった」とよく聞くと聞こえる程度の言葉を発していた。子供として、やっと面白くなってきたところだった。これからどうなるか、気になる。

akusyu2 イギリスでは日本語環境が母親の娘だけだ。家の中で夫婦はドイツ語。テレビも、まわりの世界は英語、面食らうだろう。折角覚え始めた日本語はどうなるやら。子供の順応力はすごいというから、どうにかなるはず。

KIF_9783アイラはヒナと同じ歳、一緒に遊ぶにちょうどいい相手同士だが、まだうまく遊べない。お互いに性格はまるで違う。ヨーロッパの子と日本の子、実に典型的な違いが明瞭にわかる。

来たときが、3月でハイハイもまだできなかったのが、今では歩くのも駆け足になっている。言葉はできないが、「ゾウさん」「むすんでひらいて」など日本語童謡を聞くのが楽しそうだ。

飛行機が順調だったら、真夜中ロンドンの空港から乗り換えて明日ニューカッスルに着く。飛行機事故がないことを祈る。

2005年9月22日 (木)

佐々木彰さん、今いずこ

台風14号で九州あたりの被害が多く報道されて、新潟の貴兄の遭難は大きく報道をされなかったのですが、テレビ新潟では以下のように報道しました。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・テレビ新潟のニュース・・・・・・・・・・・・・・・
IMAG0170 4日夜、南魚沼市に友人と渓流つりに来ていた男性が、水かさを増した沢に流され、行方不明となっている。
 行方不明となっているのは、神奈川県伊勢原市の自営業、佐々木彰さん61歳。佐々木さんは、きのう夜、平塚市の友人の男性と一緒に渓流つりをするため、南魚沼市の銅倉沢でテントを張っていたところ、水かさが増した沢に流された。一夜明けた5日、平塚市の友人の男性が、携帯電話が通じる場所まで沢を下り、警察に通報したが、佐々木さんの行方はわかっていない。現場は、三国川ダムの上流3キロ付近。きのう夜、激しい雨が降り、雨は現在も降り続いている。
akiraotousann DSC00135  警察と消防は合同で銅倉沢に入り、佐々木さんの行方を捜している。

  不明になって一週間、潜水夫の方々が捜索し、12日協力してくれた方々がお帰りになったのち、釣りの仲間の方たちがボートを出して湖底を探してくれました。アンカーで湖底の樹木を引っ掛けて動かしたら、三国川ダムの湖底から彰さんあなたが浮上したのです。

IMAG0213  半分はあきらめて、捜索用のポスターを作って張り出していました。もうポスターを貼って地元の人の偶然の発見しか頼れないと思い始めたとき、あなたは浮かんできたのです。

潜水夫が探したあと、この広いダムの湖底から、ボート一艘で見出すことはかなり困難な作業です。その釣り仲間の期待に応えるようにあなたは浮かんで来たのです。彰さん、みんなはあなたの意思を感じたそうです。

FatherComehome  死とは一体なんだか分かりませんが、呼吸を止め、脈はなくとも、彰さんの意思が存在していたのだろうか。友達が探していたのに応え、一緒に帰りたかったのかもしれない。その死に顔は、渓流の冷たさが幸いして、彼の体を守っていたように、生前と変わることなく損傷も腐食もなかったということでした。
妻の隆子さんはもちろん、館山のお母さんは夫であるお父さんを亡くし、今度は長男をなくし、どんなにか心痛か、想像に余りあります。

ポスターは何枚かは貼ったが、特に役立つことはなかった。掲示板には数年前から貼られた捜索ポスターも残っている。そんな探しても見つからない不幸にさせることがなかっただけでも、よかった。

SasakiAkira 彰さん、あなたの姿かたち、肉体は見つかっても、あなたの魂魄はどこへ消えてしまったのでしょうか。

版画を彫れば、上手に年賀状を作り、大工仕事でも、車の運伝もうまかった。唄を歌えば天下一品(下記音声ファイル参照)多趣味で器用な方だった。欠けたところのない人でした。

彼は人なつこく、親に愛され、友達、皆に好かれて座談の輪の中心だった。向かい合って話をしていると、彼の話術に吸い込まれてしまうような人でした。豪快で、陽気で、人の気をそらさないあなたがいると居ないでは、座持ちがぜんぜんちがっていました。

先頭を切ってあの世まで突っ走っていったのか、余り愛されて、あちらの世界の主からもお呼びがかかったのか、と思います。生まれてから、両親から長男として大切にされ、いつも人の真中で愛されていたような人生でした。

Sougi1 私より若く、お元気であった方が、まさかそんな形でお別れしなければならないとは、まことに残念です。

何方からも好かれて、愛されていた方だけに、とても残念です。

本日は佐々木彰の葬儀並びに告別式に最後までご列席頂き、まことにありがとうございました。

それでは、皆様方の健康と故人のご冥福を祈り、献杯とさせて頂きます。 
 献 杯  ありがとうございました。

ArisiDayss 「0songNagamoti.mp3」をダウンロード

2005年9月13日 (火)

三国川ダムの湖底から遺体

http://nozawa21.cocolog-nifty.com/nozawa21/2005/09/__8f99.html この続き、不明になって、一週間捜索したが、見つからなかった。昨日、三国川ダムの湖底から遺体で浮上した。

行方不明になって以来、三国ダムの湖底を警察に依頼して、潜水夫を雇って探してもらったが発見できなかった。今週日曜日、月曜日継続してさがした。月曜日の午後には潜水夫による調査は中止された。

その後、釣り仲間3人がボートに乗り、湖上からアンカーを引っ掛け、湖底の樹木を何回か持ち上げたところ、その横から遺体は浮かんできた。釣り仲間の呼びかけに答えたかのように上がってきたという。釣り仲間との親しく付き合っていた彰さんらしい。

3キロも上流から、ここまで流されて一週間以上この湖底にいたわけだ。冷たい水に沈んでいたせいか、遺体の損傷はほとんどなかったという。

行方不明の遺体調査を依頼すると、潜水夫一人一日20万円かかる。潜水はチームになっているから、一日100万円はかかるという。警察で調査してくれる場合は、3万5000円だとか。

2005年9月 6日 (火)

三国川ダムの上流3キロ

Akira18 義弟佐々木彰、彼はスポーツ万能で誰にでも好かれる男である。渓流釣りは趣味の一つで、9月4日(日)新潟県へ出かけていたところ、夜、川の増水でテントごと流されたという。一体どうなっているのか、今はまだ行方不明である。

秋田県生まれで、本職は1級建築士で建築設計をやっている。スキーの腕前はプロ級で指導員ができる。50代、60代ごとにマスターの日本記録を塗り替えていた。海では素もぐりであわびを採る仲間がいるし、秋には山できのこ、山菜を採ってくる。日本のあらゆる穴場を心得て、きのこのホームページを作って紹介していた。

彼の家族はアウトドアライフを楽しむ家族だったので、夏休み川のキャンプに私の家族も連れて行ってもらった。彼の活動力は並の人とは違っていた。とても降りられないと思う橋の下へロープ一本で水を汲みに行ってきたり、岩場の坂をすたすたと上る。そんな能力を持っていた。

「ひどい目にあったよ」と笑って出てきてくれることを期待している。彼のことだから、ありえると思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・テレビ新潟のニュース・・・・・・・・・・・・・・・

4日夜、南魚沼市に友人と渓流つりに来ていた男性が、水かさを増した沢に流され、行方不明となっている。
 行方不明となっているのは、神奈川県伊勢原市の自営業、佐々木彰さん61歳。佐々木さんは、きのう夜、平塚市の友人の男性と一緒に渓流つりをするため、南魚沼市の銅倉沢でテントを張っていたところ、水かさが増した沢に流された。一夜明けた5日、平塚市の友人の男性が、携帯電話が通じる場所まで沢を下り、警察に通報したが、佐々木さんの行方はわかっていない。現場は、三国川ダムの上流3キロ付近。きのう夜、激しい雨が降り、雨は現在も降り続いている。
 警察と消防は合同で銅倉沢に入り、佐々木さんの行方を捜している。

2005年9月 5日 (月)

沖縄で60年前に起こったこと2

読谷村の村民は、70キロの山道をたどって、北部国頭村へようやく着いたが、米軍の捕虜になった。

当時「捕虜の辱めを受けず」という東条英機が山本有三に依頼して作成したという、軍人訓が日本国民に行き渡っていたから、捕虜になることを潔しとしない。捕虜となるより、死を選ぶ人が多かった。多くの自殺者が出たし、捕虜となることは、死の覚悟であった。

kif_9509 当時のフィルムを見ても、年端もいかない子供が米軍兵士におびえて、震える姿がいたましい。捕虜の扱いが国際条約で決まっていて、虐待されることはないとはほとんどの国民は知らなかった。

中国戦線に行った従兄弟のKさんは、捕まったら殺されると覚悟していた、といっていた。ということは、捕虜は日本の軍隊ではお荷物、自軍さえ食い物がないのに捕虜に食料を与えられないから、殺すのは当然であった。

KIF_9536 KIF_9537 ところが、国頭村村民は米軍から食料の補給を受け、彼らはその厚遇を喜んでいた。それを日本軍は双眼鏡で監視していた。

軍の兵士よりうまい物を食い、米軍の扱いに喜んでいる。放っておけば、日本軍の機密をすべて米軍に筒抜けになる。それで、軍部は、村民の処刑を決定した。ある夜、住民を浜辺に連れて行き並ばせた。仲村渠ナカンダカリ美代さん当時28歳が語っている。

KIF_9540 仲村渠ナカンダカリ美代さんは、前列の右端に立っていた。その後に幼女を抱いたお母さんがいた。その幼子は母の腕の中で眠っていたという。

軍人が村民の前に立ち、何か処刑に関することを語り、手投げ弾を投げつけた。そのとき、仲村渠ナカンダカリさんは端っこにいたせいで、無事であった。腕や足、死体がごろごろしていた。後の幼女は、血だらけでぐったりしていた。父親は、縛られて殺害された。箱の乗せられて運ばれて行ったが、その後どうしたものか、気になっていた。その60年後テレビ画面上での再会を果たした。

「日本男子だろ、死を覚悟で戦わんか」といって、壕から出て死ぬしかない戦いに駆り出す軍の構造は、一体なんだろう。ここに現代にも通じる問題点がある。閉鎖的な日本人の思考がある。異を唱えにくい日本の社会は一体なんだ。「和を以って尊しとなす」聖徳太子以来の伝統の欠陥がある。

これからは、多様性を認める社会を許さないとうまく機能しない。個人の尊厳、個人主義individuailty、個人の成熟を大切にしない日本社会はもう一度ダメになる。特に、政党、宗教、会社組織、上下関係の中で、個人の考えを許さないところに問題がある。

靖国神社に祭られるのは軍人(公務員)だけで、沖縄で犠牲になった村民、自殺した人々は国家、靖国神社から、祭られる対象には認められてはいない。多くの国民は、この差別を知っているのだろうか。靖国神社に参拝する自民党の指導者は、我々庶民のことを考えているのだろうか。

沖縄で60年前に起こったこと1

okinawa 憲法9条を改正するという政党の政策担当者に知ってもらいたいことがある。沖縄の悲劇、NHKが放送した番組であった。これは自民党の幹部に頭を下げがちなNHKとしては、よく放映した。

沖縄に米軍が飛行場がある読谷村の近くに上陸して、日本軍と戦うのは戦争だからやむ得ないかもしれない。島民と軍は一体になって戦うのだと盛んに言っていたのは、日本軍である。

KIF_9517 KIF_9518 それが形勢不利とみるや、軍は戦闘地域に島民、非戦闘員を残し、さっさと逃げる。「逃げる」という言葉は禁句だから、「転進」と言った。日本人は、言葉でごまかし、現状を直視しない傾向がある。残された島民は戦闘地域で米軍の艦砲射撃にさらされた。

米軍の圧倒的な攻撃で、絶望的な気持ちになる人が多くなった。畳一枚に一発の砲弾を打ち込まれ、死を覚悟した人が多くいた。

KIF_9504KIF_9503  「敵にやられるよりお母さんの手で殺してくれ」と病弱の人は足手まといになるからと自ら死を志願した人を見たと当時26歳の知花カマドさんは証言した。知花カマドさん自身もここの壕で5歳の息子を失っている。今までそのことを一度も語ることはなかった。

KIF_9483 歩けない人は、洞窟の中で窒息死を願って、布団に巻いて焚いた。元気な人はアメリカ軍一人でも倒して死のうと洞窟から出た。十数人の人が壕の外にぞろぞろと立ち上がって出たとき、知花カマドさんも外へ出た。付いてきていたはずの5歳の息子がいなかった。壕に戻って探そうとしたが、中は煙でいっぱい、とても探せなかった。その後、息子の行方はようとしてわからない。チビチリガマの集団自決である。

軍の指示は70キロ先の北部にある国頭村だった。道のない山中を歩くのは並大抵ではない。しかし、山中は食うものもない、

沖縄土産に不発弾が売られているのはご存知だろうか。戦時中にアメリカ軍が打った弾が今でも掘り出されている。私が沖縄に子にもらったのは直径5センチ、高さ20センチの砲弾だった。これを直撃したら完全に死ぬだろう。

沖縄戦を記録しないと、80歳、70歳を超して知っている人はいなくなる。それで企画された記録収集である。

2005年9月 3日 (土)

北朝鮮美女軍団 ねらい

KIF_9461 北朝鮮の選手は9名しか出場しないのに応援の北朝鮮美女軍団100名が、韓国仁川へきた。今月半ばから6カ国会議が再開される時に、韓国の若者に同胞意識を醸成しようと計画されたようだ。

仁川の公園には、マッカーサーの銅像が建っていて、最近これを撤去しようとする勢力がデモしたりしている。陰に陽に北の勢力はこれを応援しているようだ。

朝鮮戦争中盤で韓国+連合軍は、北朝鮮+中国軍連合に押されて負け続けていた。日本の新聞も、毎日、朝鮮半島の絵に北からの矢印が連合軍を追い続ける記事が載せていた。あと少しで釜山の港近くまで追い詰められる記事を、小学生の私も、ハラハラして見たものだった。このとき、後方基地の日本は、物資補給で特需景気で、日本の産業は大いに儲けた。朝鮮特需である。戦後復興が一気に進んだ。

そのピンチだったとき、マッカーサーは、追い詰めた北朝鮮+中国軍の背後から上陸したマッカーサー司令官がこの局面を打破した。

このころ、連合軍朝鮮現地司令官ウオーカー中将が戦死した。中将ともあろうものが、敵の弾に当たって死ぬなら、相当戦況が悪いと思った。朝鮮戦争経過:参考資料

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89  開かないときは、こちらを参考に

この北の南下時、韓国の村々に入っては、残っている人々を連れ去ったり、不足する戦闘員にした。これが南北分離家族の原因らしい。また、人民裁判をして相当数の人間を死刑、銃殺していると、いろいろの文書に書かれている。この裁判が妥当なものであるならともかくも、正確な資料がないから、断言は出来ないが、ずいぶんいい加減な調べで殺されているらしい。

「地上の楽園」建設という宣伝を北朝鮮は盛んにした。実態とかけ離れた内容を「地上の楽園」と偽って、人を連れ去って、帰国もさせない北朝鮮に首脳部の策略を見ると、日本人の感覚からは信じられない。戦争、あるいは外交は、平和時にもだましがあっても当然とする、北の考えなのかもしれない。

仁川上陸の成功で、従って、マッカーサー元帥は、韓国を解放した恩人であり、銅像を建てるだけの価値ある偉人となる。しかし、北から見れば、あと一歩でアメリカ軍を駆逐して統一できるはずだったのに、という思いがある。それで、南北分断の張本人と見られる。それで、銅像は撤去できる機運を韓国内で盛り上げたい、のが北朝鮮である。

KIF_9462 北朝鮮の得意な卓球大会には参加しないで、こちら仁川の大会に女子高生中心の美女応援団を100名送り込んだ。ここで韓国の青少年の意識に北との一体感を植えつけようというねらいがある。

日本に報道される画像では、韓国の青年たちに熱狂的に受け入れられている様子であるが、実際は以前ほどの熱気はなく、北朝鮮上層部は韓国の空気が読めていなかったという分析である。

KIF_9460 画一のユニホームで、同じ髪型、一律の団体行動、これでは韓国の若者にアピールしないという。今回の美女軍団は失敗だったとの解説がある。

アメリカと北朝鮮が戦争したら、どっちに味方しますか。という設問では60%が北朝鮮に味方する。しかし、北に住みたいですか、という設問では誰も若者は住みたいとは思っていない現実がある。

日本の美女軍団を中国や韓国に派遣するといく内閣府の企画があったら、これはイラクへ自衛隊を派遣するより安い費用で、親善効果が上がるのではないか。

2005年9月 2日 (金)

ゴーストライターのあり方

著作代行とも言うが、ゴーストライターは、著者が多忙な場合、あるいは書く作業が不得意な場合、著者に代わって一冊に本にまとめる人を指す。

NozawaKk

ゴーストライターは、書いてほしいと思う人に代わって執筆するのが仕事である。話すことは出来るが文章にまとめるのは苦手という著者もいる。何十冊も出版している有名な人で、一冊も自分で書いていない方がいた。

著者となる方から話を聞きだして、文章をまとめるのが、仕事である。頭と手の分離である。著者の考えに補充して書ければ尚よい。

著者の話を何度か聞いてそのアイディアをまとめる。書き上げるまで、頭の中が妊娠しているような感覚である。書き上げて、著者がOKが出るまでは必死である。

一つの構想で書き続けてようやく一冊にする。内容や文章表現を推敲していたら、普段書き続けていない人には、かなりの負担になる。有名にになればなるほど、文章を書く時間はとれないだろう。

負担が大きい割りに、社会的な地位が確立していないし、人前に顔を出してはいけない存在である。私が受けた仕事として、以下のよなものがある。http://www.nozawa21.com/Gyoumu2/Gost.htm

ゴーストライターは、名前が出ることはない。出たとしても、「著作にあたり○○さんに多大なご協力を頂いた」と一行である。編曲者なら、名前も、著作権もそれなりに保護されているが、このゴーストライターは、編曲者の立場と同じか、それ以上なのに、著者の影に隠れていて当然とされている。

ゴーストライターの地位向上で何かしないと、この仕事をする人が居なくなるのではないか。しかし、ここでゴーストライターが声上げたら、あのゴーストライターは使いにくいとなる。そこに難しさがある。仕事となったら、影の存在としてゴーストライターがゴーストでなくなったら、需要がなくなる。

大統領のスピーチライター代議士秘書と同じように、その脇にいて役立つ存在でなければならない。社会的な立場のある方が存在を大きく示すためには、一人ゴーストライターを抱えているとずいぶん有利になる。それが、今後のゴーストライターのあり方の一つかもしれない。

ブッシュ米大統領は、ゴーストライターがいなかったら、存在できないだろう。ほとんどの仕事はゴーストの手を借りている。ライス長官は、ブッシュのゴーストみたいなものだ。

2005年9月 1日 (木)

手紙検閲 昭和25年頃

OpenLetter 昭和4年の早生まれのT兄は、終戦の風潮を一番謳歌していた。

うちの兄弟で一番流行に敏感であった。リーダーズダイジェストを毎月買っていたし、ベレー帽を被っていた。女の子を集めて、手回しの蓄音機でレコードを掛けてダンスをしていた。

時々女の子が訪ねてきて、T兄はコソコソと外に出て行き、路地の陰で立ち話をしていた。単に立ち話だったが、それをつけて行って、のぞくのが当時の子供の楽しみというか、風習だった。

田端義夫の「ハワイアン航路」の歌が流行っていたから、あれに影響されたのだろう。白いズボンにビニールの透明なベルトをしていた。当時の芸能雑誌「平凡」には田端義夫がハワイロケで現地の背の高い女性と親しくなって、結婚したという記事が載っていた頃だと思う。後に離婚したが。

リーダーズダイジェストは、アメリカの雑誌の翻訳版だったが、兄貴は雑誌の折込ハガキを送って契約して毎月取っていた。この内容は、アメリカの雑誌の直訳であまり、興味引く内容ではなかった。東京へ来たとき、毎日新聞社と隣併せに会社見つけたと奇妙な懐かしさを感じた。

この投書の方の検閲された手紙の話で思い出した。T兄のところに来ていた手紙も検閲してあった。ラブレターかどうかは、小学生の私にはよくわからなかったが、封筒の下がハサミで開けた後にビニールテープで「OPEN  HERE」だろうと思うが、「開けました」という意味が英語で書いてあった。

Kenetu 開けた封筒の底が「接着ビニール」で閉じてあるを見て、ヘーエすごいものがアメリカにはあるもんだ、と感心した記憶がある。その頃は、日本にはセロテープもないし、張り合わせるには、うどん粉を煮て糊にしたものだ。市販の糊は「不易糊」が第一号だった。

進駐軍は全国どの町にも来ていたのだろう。中津の町にも、軍人ではないが、教会に2名の若いGHQが二名来ていた。彼らは、GHQを代表して教育委員会へ行って指導をしていた。車は、茶色の濃い色したジープではなくセダンとオフロードカーの中間の車種だった。それで町中を駆け回っていたから、目だった。

中津の町では、英語が使える人は、商業学校の菅井先生、教会の水垣牧師、あと旧本陣の市岡先生(女性)の三人だったそうだ。市岡先生が一番若くて、このGHQに付き添って通訳をしていたと後に聞いた。昭和22年~25年ころだろうと思う。

浄土真宗が確立したころ

Shinnrann170906  浄土真宗が信仰を確立したころは、親鸞は、息子善鸞が「信仰すればメリットがあるよ」という異端の説で勧誘をしたことに怒って、破門した。それほど信仰に厳しかった。

また、親鸞は、死んだら死体は川に流し魚のえさにしてほしいと言った。信仰はこういうものと示して死んだが、弟子たちは、そういうふうにはしないで、墓を作って葬ったが、新興宗教として迫害をされ続けた。マンガ「親鸞入門」は、非常にわかりやすく、おもしろいし、有益だ。

信仰はただひたすらに念仏することだと説明した。しかし、一般人はこの信仰が理解しにくかったから、教団拡張のため、ついご利益があるから信仰に入るように誘ってしまう。この方が信仰に入る人はトクだし、誘う側は楽なわけだ。悪いヤツほど救われると説くと、わざと悪行をするものさえ出たというのが、浄土真宗の始まりだったらしい。

医師と患者の関係で「重態の人を先に救済する」のが、まず悪人を救う、という思想の解釈とされている。浄土真宗の中興の祖といわれる蓮如は、この悪人救済を書いた歎異抄は、誤解を招くという理由で、一般公開を禁じた。

「南無阿弥陀仏」という意味は、「仏様、ありがとう」という意味だと聞いたことがある。私たちが「感謝して、喜捨をする」のであって、信仰は「賽銭を入れたら願いをかなえてくれる」という取引ではない。(花山勝友先生著書「親鸞ー他力本願への道」のお手伝いした際にお聞きした)http://www.nozawa21.com/Gyoumu2/Gost.htm

最近の日本宗教は、ご利益を期待してお参りする傾向が強すぎる。信仰すれば、いいことあると期待で誘う、ご利益宗教が蔓延している。それが寺の側が徒党を組み、団体として政治に関与したら、僧兵を擁して、朝廷に圧力をかけた平安時代の様相になる。

宗教が政治に関与してよかった?どういう決まりになっているのだろう。宗教が政治に絡むと、教義を楯にして、一つの価値観で律して、他を排除することになる。オウム真理教がそのよい例である。

一党一派に偏しないで、最大多数の最大幸福、これが民主主義というもの。手間隙のかかる手続きではあるが、長年かかって、人間の知恵で、この方法が一番妥当と思うようになった。独裁、断行は早い結論が出るが、危険も多い。長年権力が独占されると、腐敗する。

手間ひまかけて、政治を考え、一宗派に政治を握られないようにすることは大切なことである。

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