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2005年8月22日 (月)

坂本九 柏木由紀子

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12チャンネルで「坂本九」物語をやっていたので、つい見てしまった。彼の歌ったのは「上を向いて歩こうよ」「見上げてごらん夜の空」等々、歌いやすい歌だ。

今は、この種の歌がないのか、不思議だ。このような誰でも歌える歌は、逆に歌手としての歌唱力、個性がないと聴かせられないのかもしれない。坂本九が紅白初出場のとき、あの緊張した表情が忘れられない。間奏で口笛を吹くとき、緊張のあまり口笛が鳴らなかった。その失敗もフアン、観客は坂本九に思い入れして見ていたように感じた。

夏休み中で、日航機が群馬県の御巣鷹山に落ちたというニュースを聞いたのは、東京湾の中にある戦時中に軍の要塞だったHouyou_9343 600812 猿島の浜辺にいた時だった。携帯ラジオで川上慶子さんがヘリコプターで吊り上げられて救助されたニュースを聞いた。

その中に坂本九が含まれていたということは、後から聞いた。後に、歯型から人定鑑定の先生の著書を手伝ったとき、坂本九のことを調べたが、ジャンボ機の中の人骨はほとんどがむちゃくちゃで、ミンチの中から人を探す状態。そして、真夏の死体、臭いは想像がつかない。先生は、法医学(歯科)の観点からの著書だった。http://www.nozawa21.com/Gyoumu2/Gost.htm

Bangumiテレビでは、柏木由紀子をともさかりえがいい感じに演じていた。柏木由紀子の雰囲気を出していた。

この時高校野球を聞くため、旅行に携帯ラジオを持っていったのだった。PLの清原、桑田はすごかった。大人が子供のチームと試合をしているような対戦で20数点対一桁の点数だった。

2005年8月17日 (水)

靖国神社

KIF_9194 英霊に捧げる花嫁人形

大東亜戦争で亡くなられた方々の大半は若者であった。その中には妻を娶ることなくして散華した方々も多い。ご遺族は、独身で戦死していったわが子のために、わが兄弟のためにと、せめてもの願いと祈りを込めて当神社の御神前に花嫁人形を奉納された。

 遺書や血なまぐさい遺品の展示の中に、場違いのように花嫁人形が並んでいた。気の毒な存在を作り出している事実は、否定しがたい。

2005年8月16日 (火)

靖国神社 8月14日(3)

KIF_9164 陸軍中佐が日本に残してきた生後3ヶ月のわが子Ikunn に、死を覚悟して遺訓を残している。これは軍人の手紙のお手本である。彼は多くの将兵を連れて、困難な戦場へ行くと書いてあるから、満州から南方諸島に行ったのだろう。

陸軍中佐沼田正春 野砲第一連隊 戦死時31歳 昭和19年12月2日レイテ島リモン西南方面 神奈川県出身 現在生きていれば92歳。典型的な激戦地で死んでいる。徴兵された一般兵士では尉官、佐官にまでは昇進できないから、この人は、職業軍人。多分、近所では誉れの家だっただろう。

私の知っている神奈川県出身の方は、一兵卒で、日本のために必死に戦った。そして、戦後一貫して、二度と悲惨な戦争をしないように、平和を大切にという信念を貫いておられた。戦争に傾きかかる政治にいつも意見を投書され、生真面目に戦争反対を唱えておられた。実際戦場に行った人ほど、平和を大切に思っているようにみえる。

階級の高い方には戦争を別の角度から見て、国際社会から見た日本のために戦う必要があると思うのかもしれない。

戦意高揚、銃後の守り、この靖国神社の中はマッカーサー元帥も手を付けていないから、まるで戦前の日本が残っている。KIF_9201 KIF_9179

KIF_9231 KIF_9184 Sirplane_9182HumanGyorai9197

ここまでが、日本軍の自慢の兵器。最後の写真は3人乗り人間魚雷だから、自慢はできない。KIF_9219 Rappa9208 日本は情報がないから、アメリカがどれだけ進んでいるかしらなかった。KIF_9210KIF_9211

このあとは、実際のもの、兵士が使っていた品。まだ形が残っていて、使えるだろうが、貧弱な物が多い。兵士の戦闘意欲は強かったが、戦争の末期はもうボクシングを見たことのある人なら、タオルを投げ込んで試合を止める時期だった。しかし、なお試合を続けて日本のダメージを多くした。その責任は誰だ、という問題がある。

opinion9235 遊就館で感想を書くノートがある。そこに無記名意見がたくさんあった中で、良識あるメッセージがあったので、写してきた。拡大して読んでください。

2005年8月15日 (月)

靖国神社 8月14日(2)

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「戦没者」という日本語には、醜いものを覆い隠す魔力がある。「戦没者」の生前の元気な顔からは、死地に赴かせた責任者は思い浮かばない。「戦没者」が祭られたら、死が清いもの、正しいものになるのではない。「戦没者」の醜い死、むごたらしい死は、ここからは見えない。

「戦没者」の体がちぎれて、内臓が見える死体として並べたら、戦争の責任者、戦争というものへの訴えが沸く。平和への希求が生まれる。そして、「戦没者」一人ひとりの死者のうらみ、叫びが聞こえるだろう。

1銭五厘の赤紙で徴兵できた時代、貧困から軍隊に入った人、喜んで日本郷土のためにと14、15歳の少年が純粋な気持ちで命を捧げた。

Dog9256 Hose9253Oitakenn9265日本と日本の人々を守る兵士の追悼、顕彰の場である靖国神社は、それはできないだろう。死地に赴かせるには、国民を怖気づかせるわけにはいかない。そして、日本の戦争は正義の戦いであった、これを主張し続ける場が必要である。

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戦後の日本は、欧米戦勝国から、国民の思想さえ変更させられて、昔の日本のよさを知っている人からすると、大いに歯がゆいだろう。

しかし、あまり「日本、ヤマト魂」を強調されると、クビをかしげてしまう。戦前の思想統制の時代がいいとは思えない。英語を禁止して、ストライクを「一本」と言ったり、ボールを「駄目」と言い換える日本人のヤマト魂の悪い面もある。そうしている間に、アメリカは日本語を勉強して、暗号を全部解読して、情報戦で先を越していた。山下奉文の死がその一つだ。

日本は、優秀な戦闘機、零戦を持っていたから最初は勝ち戦を続けていた。アメリカは零戦を捕獲して再生して、実験研究した。その結果、降下速度に弱点があることを発見されて、アメリカの戦闘機は追尾されたら、急降下すれば零戦は追いついて来れない。それからは、アメリカ軍機は急に強くなったという話がある。

日本は日露戦争までの古い勝ちパターンの踏襲に固執していた、と司馬遼太郎は著書で何度も強調している。

 一つ書き忘れたが、靖国に祭られるのは、国家の公務を行っていたときの戦死者であり、空襲で死亡した人は含まれない。靖国神社は、国家の体制の中で守られていた人、今で言えば、公務員しか入っていない。普通の市民は靖国神社には入れてもらえない。入れてもらえたら、お金がもらえるとか、そういう恩典はないが。

2005年8月14日 (日)

靖国神社 8月14日(1)

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三人の兵士が行進始める前、彼らはこの暑いさなか軍服を着て準備していた。

「すみません、一枚写真撮らせてください」と声掛けてみた。一番若い兵士(一等兵)が喜んで気お付けの姿勢で前を向いてくれた。隣の上等兵も気お付けの姿勢をとってくれた。旗を持っている古参の上等兵はまだ準備中だった。

号令をかけて行進を始めると、後に一人女の子が付いてきている。変だが、別に違和感がない。違和感のなさが不思議な気がした。この60年も前の陸軍の兵隊そのものだった。芝居かな。

Syamisenn9146 Yasukuni1三味線で軍歌を弾いている人、彼もまだ日本軍は負けていないと信じている組か。彼は戦前の日本のよさを知っている数少ない人なのかもしれない。{すみません。写真撮らせてください」と断って、彼のパフォーマンスを記録した。

靖国に問題をとやかく言う前に、私が見た靖国神社の中はどんな様子なのか、ご紹介したい。

アメ横 夏がくれば思い出す

SummerComes Ameyoko1 KIF_9104 KIF_9100 KIF_9094 KIF_9088 KIF_9086 KIF_9084

2005年8月 8日 (月)

誕生会ひな満1歳

Hina_8984きょうの主役は、この子、ひな。人見知りが強かった子が、最近割りと顔見ても泣かなくなったし、病気もしない。従姉妹のアイラの物怖じしない元気者とは個性が違うが、もの静かな可愛さが漂う。今はあまり悪さはしないが、これからはどうなるか。

Snmaruku8995ここのレストランは サンマルクhttp://www.saint-marc.co.jp/all_company/i.htmlというが、309のゴロ合わせらしい。

main "ファミリーレストランよりも高級でディナーレストランより手軽に"私達サンマルクはファミリーダイニングこそこれからの外食産業の目指す方向と考え、リーディングカンパニーとしてその限りない可能性を追求し続けます

誕生日には、その子のために好きな音楽を演奏してくれる。オーケストラではないが、専属ピアニストが生演奏をしてくれる。

前もって、女性のピアニストがテーブルを回ってあいさつがてら、好きな曲を聞いて回る。日本の生活習慣も変わってきたな、という感じがする。

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二人に孫娘が順調に大きくなってくれることを望むのみだ。これからが、子供らしさが出て、子育てが楽しい時期になる。

2005年8月 3日 (水)

二十四の瞳

24Hitomi Matue1 松江は、母がお産で死亡、大工の父も不況で、小学校の途中でやめて大阪へ奉公に出されてしまう。お弁当箱一つも買ってもらえない貧困、昭和5年か、6年頃、これがどこの町や村にあった日本の現状だった。大石先生が餞別にアルミの弁当箱を手渡すシーン。

Matue3松江の後には、大阪につれていく女衒がタバコをくわえて立っている。大阪に行けば、洋服も買ってもらえるし、お金がたくさんもらえると聞かされていた。

岬から本校へ通っていた六年生が修学旅行で金比羅へ行くと、そこに松江が働いていた。大阪に行く話しがいつの間にか金比羅で働くことになっていた。

Metue2 同級生が修学旅行に来ているのに松江は皆に会いにいけない。金比羅を離れる船を見送る松江。松江に思い入れをして見ると、泣ける。

船の上では「浜辺の歌」を松江に聞こえるように大石先生が皆と歌う。ここは、高峰秀子の旧作では、歌手希望の女の子が歌い、力が入っていた。

hunenoUe2 旧作では「浜辺の歌」が印象的に扱われていたが、今回は、船上シーンが、割と軽くなっていた。

戦争を体験しない世代が多くなり、戦争シーンを入れないと、社会の中でいかにその重圧があったかは伝わらないのだろう。

昭和二十年代に見た「二十四の瞳」は、戦争、生活苦、全部身の回りにあった問題だった。誇張も、説明も不要だった。しかし、今の人たちにそれを感じるのはムリだろう。

24 これが旧作高峰秀子の「二十四の瞳」だ。十三、十四歳の心に突き刺さる感動だった。その十年後、小豆島に行ったのも、ここに起源があった。

24 24 

2005年8月 1日 (月)

ぜんそく(喘息)医学の水準

Zensoku 毎日新聞8/1(月)に掲載された記事である。根本治療の究明ではないが、現時点では、この吸入がもっとも妥当な対処法であるようだ。

ぜんそく(喘息)の子供を持った親でないと、身近に感じないが、この病は普段はなんでもないのに一旦発作を起こすと、子供も苦しいが、親も眠れないし、辛い。

医師もこの病の治療法に決め手がないのが現実である。だから、喘息専門の神社があって、そこのお札をちぎって飲み込むとか、迷信もおおい。

発作を起こす原因を除去が最大の方法で、掃除機で家の中のダニの死骸、花粉の除去に努力しても、子供が動き回れば、原因菌を吸い込んで、発作となる。

私も、子供の喘息でいろいろ経験させられ、辛かったが、子供から勉強することも多かった。その経験はここに書きました。http://members.jcom.home.ne.jp/4119094901/LastMZuihitu/Omoiyari.htm

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